東京の地下鉄の父 早川徳次(はやかわ のりつぐ)

学生時代に赤坂プリンスホテルで配膳のアルバイトをしていました。銀座線と丸の内線が重なり合う「赤坂見附」駅で降りたホテル群の外観が、秋田から上京したばかりの田舎者にはとても斬新というか、洗練された都会にいるのだとワクワク浮き浮きして見附の坂を登り、赤プリに通っておりました。

何気に通勤・通学していた地下鉄を誰が作ったんだろうなどとはその当時は考えもしませんでした。先日のTV放送で東京の地下鉄の父「早川徳次」の特集を見て、確かにすごい仕事をされたんだなと感動し,興味を持ちその後拝読した致知に紹介された早川氏の概略を紹介したいと思いました。

今も「地下鉄の父」と慕われる早川徳次。地下鉄の将来を100年以上も前に予見し、先頭に立って日本初の地下鉄を造り上げた。現在の地下鉄路線網の充実ぶりを見れば、その功績は計り知れない。今回はその早川徳次の半生を追ってみる。

【早川徳次の生涯①】多くの実業家を排出した山梨県に生まれる

早川徳次は1881(明治14)年10月15日、山梨県東八代郡御代咲村(みよさきむら/現・笛吹市一宮町)で7人兄姉の末っ子として生まれた。父の早川常富(つねとみ)は、地元・御代咲村の村長を務めたいわば村の名士だった。

山梨県は、明治期に多くの偉人を輩出した。後に「鉄道王」と呼ばれた根津嘉一郎、旧西武鉄道の前身・川越鉄道や大師電気鉄道、江ノ島電鉄といった経営に関わった雨宮敬次郎などが山梨県出身で、当時は甲府財閥とも言われていた。徳次もこうした縁を活かし、その力を徐々に発揮していくことになる。

早大の法科を卒業したこともあり当初は政治家を目指した。そして、東京市長にもなる後藤新平に送付した論文が認められ、後藤の書生となる。当時、後藤新平は南満州鉄道の総裁を務めており、27歳の徳次も南満州鉄道に勤めることになった。これが最初の鉄道事業とのつながりになる。入社したものの、後藤が数か月後に南満州鉄道の総裁を辞職し逓信大臣(鉄道院総裁を兼務)に就任。師を追うように徳次も鉄道院に移った。鉄道院に移ったものの、徳次は役人の仕事には満足できず、鉄道業の実情をより知りたいと、自ら現場勤務を希望して鉄道院中部鉄道管理部に入る。

当時、東京の玄関口でもあった新橋駅で、切符切りや荷物掛けといった仕事をこなした。大学を卒業した人間が、こうした現場の仕事にはほとんどつかなかった時代であり、周りから変わり者に見られたようだ。しかし、鉄道を知るためには現場の仕事を体験することが一番で、後々にそれが活きてくると考えたわけである。実際にこうした現場での経験が、その後の徳次に大きく役立つことになる。

そんな徳次だが、1年ほどで鉄道院の安定した生活を捨てて実業の世界に飛び込み、彼の一生を大きく左右するひとりの実業家と出会うことになる。彼の名は根津嘉一郎(初代)。徳次が出会った当時、根津はすでに東武鉄道の社長であり、投資家としても辣腕をふるい、また企業再生も手がけていた。根津は同郷である徳次の経歴を知るにつれ、なかなか面白い若者と見込んだのであろう。徳次に一つの仕事を託す。それが佐野鉄道(現・東武鉄道佐野線)の経営再建だった。1911(明治44)年、徳次30歳の時である。若い経営者として、佐野鉄道に乗り込んだ徳次は、現場に通い、どこに問題があるのかを見いだし、さまざまな改革を行っていく。半年あまりで佐野鉄道の配当を4分から1割以上に増配するなど優良会社とした。翌年に佐野鉄道は東武鉄道と合併し、東武佐野線となっている。

佐野鉄道を再建した翌年、31歳の徳次は根津により高野登山鉄道に送り込まれて支配人となる。高野登山鉄道に支配人としておもむいた年に、望月軻母子(かもこ)と結婚。叔父となる望月小太郎は徳次と同じ山梨県の出身で、当時、衆議院議員を務めていた。根津嘉一郎に引き合わせたのも望月小太郎の手によるものだ。

【早川徳次の生涯②】鉄道と港湾関係の調査に出向いたロンドンで

高野登山鉄道の再建のために赴いた大阪で、思うところがあって支配人の座を投げ出してしまった徳次。投げ出したはいいが、暇になってしまった。暇をもてあまして足を向けたのが、大型船を入港させるために大阪市の予算の20数倍という経費を使って、1897(明治30)年に整備した大阪築港だった。ところが、近くの神戸港へ入港する船は多かったが、大阪の築港は閑散とした状態が続いていた。その様子を見た徳次は現状を打開する策として「港と鉄道と組み合わせること」を思いつく。矢も盾もたまらず、徳次はすぐにヨーロッパの実情を見てこようと思いたった。とはいえ、当時の洋行には大変な費用がかかる。もちろん、そうした金など手元にはない。そこで早大の恩師である大隈重信にかけあった。大隈は首相(第二次大隈内閣)となったばかりで多忙な時期だったが、叔父の望月小太郎が大隈の秘書をちょうど務めていたことも幸いした。

叔父の縁があるとはいえ、首相に会おうという徳次も相当なものだ。また会った大隈も、徳次の人物を見込んでのことなのだろう。お金の催促にも応じてくれたのである。しかも鉄道院の嘱託の身分まで用意して。当時の人々は、前途有望と見込んだ若者には、惜しみなく援助を行ったようである。徳次33歳、妻を日本に置いての洋行である。あくまで「鉄道と港湾関係の調査をするため」であったのだが、そこでその後を決める一つの出会いがあった。

出向いたロンドンで、地下鉄に出会ったのである。ロンドンの地下鉄は世界最古の歴史を持つ。最初の地下鉄路線は1863年1月開業というから、日本が幕末のころすでにロンドンに地下鉄が走っていたのである。徳次が訪れた1914(大正3)年には、市内にすでに10本の地下鉄路線が設けられていた。初めて地下鉄を見て、乗った徳次は心の底から驚いたことだろう。〝これはすごい、そして敵わない……〟と。そして、いつしか日本にも地下鉄を通すのだ、という自らの夢と目標がしっかり心の中に芽生えたのである。一度、日本へ戻った徳次だったが、ロンドンだけでなく他国の地下鉄も見たいと思うようになった。1915(大正4)年から翌年にかけて、イギリス、フランス、スイス、カナダ、アメリカを巡り帰国した徳次は35歳となっていた。

徳次が洋行していたころの日本の東京の交通事情を見ておこう。山手線など一部の官制路線があったものの、市内の交通は路面電車が頼りだった。当時の路面電車の様子を写した絵葉書がある。朝8時のラッシュの様子だ。車外にしがみつく人、入口には押し合いへし合いする人の様子が見て取れる。絵葉書の題名は「東京名物満員電車」とある。押しあう男性たちの後ろには、ぼう然とその様子を見守る中学生らしき少年と、冷めた目でカメラを見る女性の姿が見える。このような光景が、朝夕には日常に行われていたのだった。大の大人ですら乗車するのに大変で、女性や子どもたちにはとても危険で、乗るのにも苦労する路面電車だったのだ。日本に戻り、こうした実情を見た徳次は、市電の数倍の輸送力を持つ地下鉄の路線がかならず必要になると確信した。

帰国してすぐに、徳次は地下鉄建設に向けて調査を始めた。調査項目は3つ。まずは路線をどこに敷けばより効果的かということだった。当時、東京市電では統計など取っていなかった。そこで徳次自らが街に立ち続け、利用者を数えた。今で言う「交通量調査」である。ただし今のようにコンパクトなカウンター(数取器)はない。そこでポケットに多くの豆を入れて、1人ごとに豆を別のポケットに移すという方法で人数を数えた。家に帰ると、妻が集計を手伝ったそうだ。

さらに「地質調査」。なかなかそうした調査結果が見つからなかったが、橋を架ける時に造る地質図が東京市の橋梁課にあると聞き、すぐに入手した。次に地下鉄工事中に悩まされる「湧水量調査」がないかを調べた。当時は未舗装の道路に水を蒔くために、市内に撒き水井戸という井戸が掘られていたが、水の確保のために地中深く掘られた井戸が多いことに着目。地下鉄工事を阻害するほどの湧水量はないと判断した

【早川徳次の生涯③】渋沢栄一ほか多くの財界人に話を持ちかける

こうした調査を終えれば、あとは金策、人材の確保、そして財界の重鎮にいかに手助けしてもらうかだが、これが予想以上にてこずった。1917(大正6)年の初頭には、経済界の重鎮、渋沢栄一に会いに行き、地下鉄建設の支援を要請している。2度ほど会って支援は取り付けたものの、渋沢は高齢を理由に代表就任を断っている。その代わりに、援助と世話役を引き受け、その後の地下鉄誕生に向けて大きな力となる人々を紹介している。

地下鉄建設の免許出願のためには東京市会(現・東京都議会)の賛同が必要だった。そのために徳次は各議員のもとを自ら訪れ、根気強く説得して回った。この年に東京市会の賛同を得ることができた。徳次のこうした動きに合わせるかのように、東京の将来には地下鉄が必要という声が少しずつ出るようになっていた。また、地下鉄路線が儲かりそうだからとりあえず免許申請に動こうという企業もちらほら現れてきていた。そんな動きを察した徳次は「東京軽便地下鉄道」を設立。高輪南町〜公園広小路(浅草)間と、車坂町〜南千住町間の地下鉄敷設免許を申請した。徳次36歳の時のことだった。しかし、申請したものの、すぐに認可は下りなかった。日本ではまったく未知の地下鉄づくりだ。東京は埋め立て地が多いから、地下鉄造りには不向きという専門家も少なからずいた。さらに、地上を走る鉄道に比べて、地下を掘って造る地下鉄は、莫大な資金が必要になる。財閥などの後ろ盾がない徳次に対して、果たして大丈夫かと疑問視する声が強かった。地下鉄を認可する鉄道院からも財政面での不安が指摘され、もっと財界の有力者を加えることを求められた。役所から見たら当然のことだったのかも知れない。未知数の地下鉄建設なのである。予算はそれこそ計り知れない。

そこで徳次は、根津嘉一郎の紹介をうけて、山本悌二郎(台湾精糖/現・三井精糖社長)、大川平三郎(「日本の製紙王」と呼ばれた)、野村龍太郎(鉄道院副総裁で、東京地下鉄道の第2代社長となる)らに発起人に加わってもらった。1919(大正8)年11月17日、ついに徳次は免許を取得。38歳の時だった。しかし、取得したものの、すぐに工事着手とはいかなかった。根津らの勧めにより、徳次のあとから地下鉄路線の出願を行った「東京鉄道」と合併、「東京地下鉄道」を1920(大正9)年8月29日に設立している。「東京鉄道」は三井財閥の資本力を背景として生まれた会社だった。この時、徳次は東京地下鉄道の常務取締役に就いている。社名は変わったものの、相変わらずの資金不足に苦しめられた。資金調達の目処がたちつつあった1923(大正12)年9月1日には関東大震災が起こる。それまで徳次は新橋駅〜上野駅間の工事を進めようと考えていたのだが、より短い区間だが収益が見込める上野駅〜浅草駅間を先に開業させるという方針変更を行った。

関東大震災にも苦しめられ、工事の着手もままならない非常に苦しい中で一つの朗報が舞い込む。大倉土木(現・大成建設)が、工事費は竣工後の手形払いで、さらに利率も低くて良いという条件で工事を請け負ってくれたのだ。これが一つの転機となった。そして、ようやく1925(大正14)年9月27日に上野〜浅草間の工事に着手したのだった。徳次44歳、ロンドンで地下鉄に出会ってすでに10年以上の時がたっていた——。

『必要の事は、何時か必ず実現する。必要は不可能なことすら可能に変えていく』

東京の地下に鉄道を!と発送する事自体稀有なことであるが、あらゆる反対にもめげず上記の信念を持ち続け東京に地下鉄を通してくれた、「早川 徳次」(はやかわ のりつぐ)に大々感謝です。

以上、営業 佐藤でした。

*参考文献:「地下鉄誕生 早川徳次と五島慶太の攻防」/中村建治(交通新聞社)、「地中の星」/門井慶喜(新潮社)、  致知4月号から抜粋。

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